昭和20年5月

(終戦の約3ヶ月前、昭和20年5月鍛刀の軍刀をHPに掲載しましたので、当時の逼迫した様子を、あちらこちらから
集めた資料により、ご紹介してみようと考えた次第です。記述に抜け落ちている部分も有るかと思いますが、ご興味の
有る方は、文献等でご確認の上、補って下さい。)

菊水作戦 五号〜八号
菊水作戦に至るまでの経過。
前年の昭和19(1,944)年10月23日〜25日に、フィリピン南部のレイテ島への米軍上陸を阻止すべく、日本側は陸海軍による総攻撃を仕掛ける。

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大本営は、捷一号作戦を発令。空母4隻を擁する小沢機動部隊が敵空母群との決戦を目ざし、戦艦大和・武蔵を主力とする栗田艦隊、同じく志摩艦隊、西澤艦隊が各方面からレイテ湾突入攻撃に向かう。
だが、通信の不調や悪天候、戦局の不利、飛行部隊の練度の不足が災いし、対して、敵のレーダーや近接信管などの新兵器、武器弾薬の決定的な数量の不足、食料の不足などなど、圧倒的な不利な条件下で、この海戦は敗退した。


神風特攻機が初めて出撃したのも、この時期。

翌、昭和20年4月、不沈艦と目されていた戦艦大和も、昭和20年4月7日に、敵艦載機の猛攻撃を受けて撃沈され、軍艦による反撃も艦隊を組織出来ない処まで追い込まれた。
ボーキサイトや鉄鋼材など、資源不足、燃料不足、食料不足も追い打ちを掛けた。

終戦は、昭和20年8月15日の玉音放送をもち、約3年8ヶ月の戦闘が終わった時、俗に言われる、泣く子も黙ると恐れられた威風堂々400隻の日本海軍連合艦隊の姿は無かった。




菊水五号作戦

5月3日、沖縄本島の第32軍は反攻作戦を実施した。大本営がこれを支援する方策は特攻作戦しかなかった。同日、「菊水五号作戦」と「第六次航空総攻撃」が発令された。海軍は1日から4日にかけて、作戦機449機、うち特攻機160機を投入、特攻機の未帰還は65機であった。

3日、
アメリカ海軍駆逐艦「リトル」撃沈

4日、
駆逐艦「モリソン」「リュース」を撃沈

   
護衛空母「サンガモン」を小破

  
 イギリス海軍の空母「フォーミダブル」小破

  
 同・空母「インドミタブル」を小破


9日、
イギリス海軍空母「ヴィクトリアス」大破

    
同・空母「フォーミダブル」を大破

菊水六号作戦  

「第七次航空総攻撃」(5月11日 - 14日)
11日、「菊水六号作戦」と「第七次航空総攻撃」が発令され、海軍は8日から11日にかけて作戦機345機、うち特攻機86機を投入、12日から15日にかけても作戦機237機、うち特攻機47機を投入した。特攻機の未帰還はあわせて95機であった。陸軍も作戦機80機、うち特攻機35機を投入した。



アメリカ海軍・正規空母「バンカーヒル」大破・大火災炎上

5月11日早朝、第58機動部隊の旗艦である空母「バンカーヒル」に零戦特攻機2機が命中し、同艦は大破して戦死402名、重軽傷者264名という大損害を出させた
敵戦闘機と対空弾幕をかわして空母に接近した2機の零式艦上戦闘機。
安則盛三中尉(旅順師範学校・21歳)が操縦する最初の1機が飛行甲板上に250キロ爆弾を投下したが、爆弾は艦上を通り過ぎ海上に落下し爆発し船体に損傷を与えた。直後、零戦本機は飛行甲板に激突し、燃料を満載していた艦上機を多数破壊し大火災を引き起こした。
更に直後、小川清少尉(早稲田大学・22歳)の操縦する2機目の零戦は対空砲火をくぐり抜けて250キロ爆弾を投下し、艦橋に激突した。爆弾は艦内部に達して爆発し、ガソリンに引火し大爆発を引き起こし、空母「バンカーヒル」は戦闘不能となり、大量の艦載機が破壊されたまま戦線から離脱した。


※バンカー・ヒル(USS Bunker Hill, CV/CVA/CVS-17,AVT-9)は、アメリカ海軍の航空母艦。エセックス級航空母艦の7番艦。太平洋戦争ではマリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)、レイテ沖海戦(レイテ湾海戦)などに参加した。 艦名の由来となった「バンカー・ヒル」は、ボストンの軍港の近くにある小さな丘で、独立戦争の古戦場として知られる。


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特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ-米軍兵士が見た沖縄特攻戦の真実

著者マクスウェル・テイラー・ケネディ氏はロバート・ケネディ元司法長官の息子であり、ジョン・F・ケネディ元大統領の甥にあたる。その著者が注目したのが、太平洋戦争で特攻機の突入を受けた米空母バンカーヒルの物語である。
著者は、「特攻」について次のように述べ、そのスタンスを明確に示している。


「彼らの最後の望みは、未来の日本人が特攻隊の精神を受け継いで 強い心を持ち、苦難に耐えてくれることだった。
 私たちは、神風特攻隊という存在をただ理解できないと拒絶するのではなく 人々の心を強く引きつけ、尊ばれるような側面もあったのだということを 今こそ理解すべきではないだろうか」

1945年5月11日、沖縄沖の米艦隊を目指し、多数の特攻機が九州から飛び立った。そして安則盛三中尉(旅順師範学校・21歳)と小川清少尉(早稲田大学・22歳)の搭乗機がバンカーヒルに突入、この空母は甚大な被害を受け、650名以上が死傷した。本書は、その日の激闘を中心に、そこに至る経緯、そしてその後を描いたノンフィクションである。

著者は、日米双方の視点でこの戦いを描くべく、何年にも及ぶ綿密な調査を行い、元特攻隊員を含む多数の日米両国の生存者とその家族を精力的に取材。来日は3度にわたる。

本書は、若き特攻隊員の置かれた立場やその心境を丹念に追いつつ、何が軍部を特攻作戦に駆り立てたのか、隊員たちは、いかにしてそれを受け入れ、実行できたのかを探ってゆく。そして、バンカーヒルの乗員たちの知られざる英雄的な行為──水兵とパイロットが力を合わせ、命がけで救助を行い、最終的に艦を守り抜くまでの一部始終──を描き、極限の戦いの中でそれぞれの国のために尽くした男たちの真実の姿を明らかにした。

これまで日本側資料では、特攻の実際の場面を「当事者」の視点で描くことが難しかったが、米国側の詳細な資料と元乗員の生の証言を基にした本書は、米兵を震え上がらせた特攻の「実際」を、克明に、そして残酷に描き出している。

最初に突入したのは安則機。空母後方から降下し、爆弾を投下。爆弾は飛行甲板、側壁を突き抜けて爆発。次いで機体が突入、甲板上の航空機をなぎ倒しながら、海へと落下。多数の艦載機が炎上し、バンカーヒルは大火災を起こす。

小川機も急降下し、爆弾を投下、自身も艦橋基部に突入。爆弾は飛行甲板を貫いて格納庫で爆発、さらに大規模な火災を巻き起こした。機体そのものも艦橋を破壊、多くの死傷者を出した。

本書は「1945年5月11日の特攻」の単なる記録ではなく、あたかも一編の映画のように、迫真の人間ドラマとして生々しく再現した物語である。

・・・・・Amazon ¥3,990 日本語 672p ハート出版 発売日 平成22年7月12日


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第58機動部隊を率いるミッチャー中将は、旗艦を空母「エンタープライズ」へ移したが、さらにエンタープライズも、14日に特攻を受けて大破、戦線から離脱した。
ミッチャー中将はさらに旗艦を空母「ランドルフ」へ移さざるを得なくなった。

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アメリカ海軍・正規空母「エンタープライズ」大破

昭和20年(1945)5月14日午前6時56分,Big−Eと呼ばれたアメリカ海軍の空母エンタープライズ号に,富安俊助中尉搭乗の零戦が体当たりし,大破させた。
その結果空母エンタープライズは戦線を離脱し、米本国へ修理のため曳航され,二度と戦列に復帰 することはなかった。
米軍はこの特攻機の冷静沈着かつ,最期の瞬間まで強い意志を感じさせる行動に感懐を覚え,他の KAMIKAZEとは区別してDIVINEWIND,”神聖な風”と呼んだ。


米軍の記録は、この日の戦闘状況をつぶさに描いている。

5月14日早朝、26機の日本機が飛来して来た。6機が対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒機によって撃墜された。だが富安俊助中尉搭乗の1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認しつつ生き残っていた。そして午前6時56分、この1機がエンタープライズに向かって突撃してきた。エンタープライズは富安機を20分前からレーダーで認識していたが、富安機が雲に隠れるなどしたために、効果的な反撃が出来ずにいた。エンタープライズが旋回し艦尾を向けたときに富安機は満を持して急降下攻撃を実施。エンタープライズは集中砲火を行なったが、富安機は機体を横滑りさせるなどして回避、オーバーシュートする寸前に艦の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態から急降下し、前部エレベータの後部に突入した。前部エレベーター甲板は爆発によって400フィート(約120m)上空まで吹き飛ばされた。これによりエンタープライズは大破炎上し、破孔からの浸水によって前部は2.2メートル沈下し、深刻な損傷を負った。
火災は17分で消火されたが、飛行甲板の損傷により発着艦不能となった。
富安中尉の遺体はエレベーターホールの下で発見され、アメリカ兵と同じように丁重に水葬された。
またこの時の機体の破片は後に、軍属の二級登録板金工だったノーマン・ザフト氏から富安中尉の家族に返還された。
この日がエンタープライズにとっての最期の戦闘となった。


平成15年8月 茨城県友部町立歴史民族資料館に於いて、富安中尉機の零戦機体の一部破片が返還された。返還したのは、元・空母エンタープライズ号乗組員だったノーマン・ザフトという二級登録板金工(軍属)氏。氏は零戦が突入した近くにいて、零戦のプロペラの一部と機体の破片を拾ったとの事。


米軍パイロットの目撃談

「この零戦はCAPや弾幕にやられそうになると雲の中に隠れ,時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認し,すぐそばまで近づいてからダイブ(急降下)を始めた。高速,機首上げ でオーバーシュートしそうになると背面飛行を行って修正し,母艦の最も弱点とするエレベーターめがけて突入している。エ ンタープライズは大破炎上し戦線離脱を余儀なくされた。彼はこれまで日本海軍の先輩ベテランたちがよってたかって 3年かかってもできなかったことを,たった一人で一瞬の間にやってのけたのだ。」
と称賛の言葉を述べている。
また別の者は, この特攻機をDIVINEWIND(神聖な風)と呼び,他の特攻機と区別している。
いわゆるカミカゼが無謀という意味合いを含むのに比し,この零戦の類まれなる計画性と巧妙精緻な技術は米軍に特別な尊敬の念と大きな感動を抱かせたともいえる。



零戦搭乗員・富安俊助中尉の遺書



 父上様
 母上様
 姉上様

 突然,某方面に出撃を命ぜられ,只今より出発します。もとよりお国に捧げた身体故,生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。
 御国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御国の防人として出て行くのです。私が居らなくなったら淋しいかも知れませんが,大いに張切って元気で暮らしてください。心配なのは皆様が力を落とすことです。
 海軍に入る時に,当然死を覚悟していたのですから,皆様も淋しがることはないと思います。秀雄には便りを出す予定ですが,家からもよく言ってやって下さい。
 近藤中尉が訪ねていく予定故,会ってやって下さい,
では大いに頑張りますから,その点御安心下さい。 

 予備学生13期,早稲田大学政治経済学部     俊助



※ 予備学生とは、一般大学などから軍隊に入隊した学生にも士官としての階級を与える事にした呼び名。
※ 昭和18年、予備学生13期は、7万人の志願者から選抜された。同年9月から土浦・三重航空隊で基礎教育を受ける。
  富安俊助中尉は土浦市の霞ヶ浦海軍航空隊で猛訓練を受けた内の一人。




菊水七号作戦


「菊水七号作戦」・「第八次航空総攻撃」(5月24日 - 25日)
24日、義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺奇襲作戦(義号作戦)が実施され、同日、「菊水七号作戦」と「第八次航空総攻撃」が発令された。この頃になると海軍でも実用機が払底し、練習機「白菊」を特攻機として投入していた。もとより鈍足の練習機はアメリカ艦隊に至るはるか洋上で撃墜されることが多く、もはや特攻作戦は末期的状況を呈していた。


23日から25日にかけて、海軍は作戦機387機、うち特攻機107機を投入。特攻機の未帰還機は32機であった。陸軍は作戦機174機、うち特攻機61機を投入した。しかし、輸送艦「ベイツ」を撃沈し、護衛空母「スワニー」他数隻を損傷させたほかは、目だった戦果を上げられなかった。




菊水八号作戦


「菊水八号作戦」・「第九次航空総攻撃」(5月28日 - 29日)
28日、「菊水八号作戦」と「第九次航空総攻撃」が発令される。26日から28日にかけて、海軍は作戦機217機、うち特攻機51機を投入し、特攻機の未帰還機は26機。陸軍は作戦機71機、うち特攻機57機を投入した。戦果は、27日に駆逐艦「ドレックスラー」を撃沈した他は、駆逐艦数隻を損傷させたのみであった。こうして特攻は次第に戦果を上げられなくなっていった。28日、第6航空軍が連合艦隊司令長官の指揮下から外れた。



参考

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 

『第二次世界大戦における米海軍作戦史 第14巻  Victory in the Paciffic第16章 May days at Okinawa第2節 The Fast Carrier Force 』米海軍中将サミュエル・エリオット・モリソン
『筑波海軍航空隊と神風特別攻撃隊』
『青春の証 筑波海軍航空隊』友部町教育委員会生涯学習課


『NAVAL HISTORY』誌 2008年4月号の引用記事より

「特攻」 マクスウェル・テイラー・ケネディ著  単行本: 672ページ 出版社: ハート出版  言語 日本語翻訳
発売日: 2010/7/12 Amazon ¥3,990




スターリンへの親書


レイテ沖海戦(比島沖海戦)の前に、昭和天皇は、連合国との戦争終結・和解の仲裁を、日ソ不可侵条約が有効だったソビエト連邦のスターリン宛に親書を送った。
親書の返事を待ったが、終戦まで、スターリンに無視され続けた。
また、天皇の親書の件は、アメリカのルーズベルト大統領も知っていた。
日本の内閣近辺や国内にも、同時に、ルーズベルト大統領側近や有力な知識人等にも、コミンテルンスパイが多数存在していた事が判明している(総数約300人)。


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神風特攻は犬死にだ!と吹聴されたりしているが、それは日本人の精神を歪める為の工作と推測されてなりません。

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サムライとは?


敵に自らの皮を斬らせて敵の肉を斬り、肉を斬らせて骨を斬り、骨を斬らせて敵の命を絶つのが、侍の精神で、神風特攻は、その精神を引き継いだものと思われます。

筆者が小さい頃は「死なば諸共(もろとも)」という言葉が生きていたものです。
これは侍精神と同じで、良く似ている。


敵の圧倒的、優勢な大量の武器弾薬、90倍もの経済力、1,000倍もの差があるとされる程の有り余る弾丸、十分な食料、情報の量。
日本側の絶対不足な燃料とオクタン価91程度のローオクタン価ガソリンに比し、アメリカは、オクタン価130以上の高性能ハイオクタンガソリンや高品質の潤滑油等など、どれを取っても最初から優勢そのもの。

しかし、その劣勢な状態でも、日本軍は次々と高性能戦闘機・零戦・隼・飛燕・紫電改・疾風・五式戦闘機・他などを開発し、P−38ライトニングやプロペラ機では最優秀戦闘機と言われたP−51ムスタングなどを相手に、ローオクタン価ガソリンでさえも多数の敵機を撃墜して来た。
せめて、同レベルのハイオクタンガソリンが有ったなら、言わずもがなでしょう。


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しかしながら、まともに戦っては勝ち目は無い場合、しからば、道連れに冥土へ引き連れて行こう、と考えたのが侍精神の自然な成り行きだったのではないかと思えます。
戦闘機だけでなく、飛行機乗りは「サムライ」だった!が、真実と思えます。

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防空特攻

特攻は空でも行われ、三式戦・飛燕に乗りB29重爆撃機を2機も撃破し、無事生還し、現在も御生存されておられる猛者も居ります。
現在埼玉県にお住まいの元軍曹の板垣政雄さんは、昭和19年12月3日、86機のB29が空襲に飛来したのを、東京・調布飛行場から特攻に飛び立ち、1機のB29の主翼に激突し撃墜する。
御自身は吹き飛ばされ、落下傘で千葉県の印旛沼付近の稲刈りの終わった田圃に降下し、駆けつけた付近の農家の人達から激突時の怪我を手当して貰い、取手駅から列車に乗って、再び調布基地へと帰還するという偉業を成し遂げた。
翌年1月27日、70機のB29が襲来。今度は、敵機の尾翼と方向舵に激突し、撃破する。このときも飛行機の外に投げ出され、落下傘で降下し生還された。

戦後、板垣さんの元に、この時のB29搭乗員から手紙が届いたそうで、敵ながらも勇敢に神風特攻をして戦った健闘を称えた内容との事です。

 「SAPIO」小学館出版・2010/5/12号・インタビュー記事から (詳細は本誌をお読み下さい) ¥400

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アメリカは学校の授業で、前線で戦った元兵士たちからこの戦争の体験談を、児童や学生達に聞かせているそうです。
或る黒人の兵士は、
「自分はカミカゼが恐かった。だけど、彼らを尊敬する」
と話しているそうです。


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体験者の話

以前、「同じ量の武器弾薬を持ち、腹一杯飯を食べさせてくれたら、奴らには絶対に負けねえ!」と、最前線で戦った元・兵隊だった複数の人から聞かされたものです。
奇しくも、刀剣の鑑定を紐解いてくれた先生も、別の場所で”全く同じ言い方”で話されたので、ビックリしたものでした。
よほど悔しかったのだと推測しました。


感想

様々な本を読みあさってみた結果、日本は騙されて仕舞ったのではないか、と云うのが筆者の結論となりそうです。
この戦争開始を進めたのは、陸海軍でも無ければ、内閣でも無くい。
石原莞爾関東軍参謀も、近衛首相に、絶対にこちら側から戦争を仕掛けてはなりません、と具申しているという。
もちろん昭和天皇は、常々外交の悪化を懸念され、戦争には反対をなさり、開戦の詔勅にも「(開戦は)・・・朕カ志ナラムヤ・・・」とわざわざ書き加えたものです。
だから、みんな戦争をやりたくなかった!
なのに?

当時の新聞を読んでみると、戦争を煽っていたのは、どうも新聞の様な気がしてなりません。



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参考
「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」 中西輝政著(京都大学教授) PHP文庫 ¥777
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%
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AD%E8%A5%BF-%E8%BC%9D%E6%94%BF/dp/4569648444/ref=ntt_at_ep_dpt_1
他多数。

日米に於けるコミンテルンの暗躍と、ドイツ人・スパイゾルゲ・近衛文麿首相のブレーン尾崎秀美のスパイ活動
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
他、多数。

「コミンテルン」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3

「レイテ沖海戦」 佐藤和正著 光人社


「SAPIO」小学館・2010/5/12号 「本土防空・B29に体当たりして生還した・・・」

「大森 実」著・他より