脇差  「肥前国正廣」
長 さ  49.4cm (約1尺6寸3分) 元  幅  29.4mm
反  り  1.2cm(約4分) 元  重  6.5mm
目釘穴  2箇 先  幅  23.4mm
時 代  江戸中期~中後期 先  重  5.5mm
外 装  白鞘入 読み方  ひぜんのくに まさひろ
登 録  茨城県 価  格  送料・税込  180、000円
肥前國正廣は肥前國忠吉系の代表的な刀工系列で、初代は慶長12年の生まれ、祖父の肥前国忠吉が武蔵野守を受領し忠広と改名した為、忠吉が空欄となったので一度忠吉を襲名しましたが、肥前国鍋島藩主鍋島勝茂の命により寛永2年11月19日に正廣と改名しました。以降、幕末の嘉永に至るまで9代続く名門となりました。

最初は豊臣側に就いたが関ヶ原直前に徳川へ就く

鍋島勝茂は伏見城攻撃をしたが途中で徳川に就く様に父直正から指示を受け従った。その後の関ヶ原合戦には参加せず、黒田長政公等有力者数氏に仲裁を頼み徳川家康に詫びをいれ許された。主家龍造寺氏とは複雑な関係に有ったが、やがて石高35万7千石の佐賀藩主とはなった。元々の領主だった龍造寺家との主権争い(鍋島騒動)を穏便に済ませた力量を買われた。加賀騒動や伊達騒動の様な大きな諍い無く治めた。しかし、騒動の出来事で発生した事件を世間では「鍋島化け猫伝説」「主家乗っ取り」などの噂話が世間に広まった。

龍造寺家や鍋島家の各家臣からは合体をする事に大きな反対が出ない様に起請文を提出させ、替わりに家臣団には莫大な報償を与えて内乱を防いだ。しかし龍造寺本家伯庵は納得せず何度も幕府(三代将軍家光)に訴訟状を提出し佐賀藩の実権を取り戻す行動に出た。結局、直訴は失敗し老中会津藩主・保科正之(二代将軍秀忠の隠し子)に永の預けとなって望みは潰えた。
この時も鍋島勝茂は龍造寺本家の処遇を穏便に済ませる様に幕府に願い出ている。
この様に龍造寺本家嫡家は途絶えたが、一門の子孫や後裔(こうえい)は現在でも佐賀県や長崎県諫早市・大村市などに存在すると云われる。

認定書には後代としか記されていませんが恐らく六代当たりではないかと思われます。本名・橋本大助、六代忠吉門人、安永年間(1772年~1780)頃から作刀がみられ文化10年(1813)11月28日没、享年58才と記録に有ります。

この脇差は肥前刀特有の延びた切っ先に鍛えの詰んだ地鋼となっており、帽子は丸く尋常に返ります。刃紋は凹凸の激しい乱れ刃に足長く、匂い厚く付き優れた出来映えとなっています。所々に飛び焼き風も有り見応えがします。少し古研ぎですが錆は有りません。充分楽しめるお勧めの一振りです。ハバキは巣銅に金鍍金の一重。
      白鞘入                                   
特別貴重刀剣認定書付